
昔、母親から「お前の友達は変わった奴しかいないね」と言われた事がある。
まだまだ子供だった僕にはその言葉からマイナスのイメージしか伝わらず「仲間を馬鹿にするな!」と激怒した覚えがあります。
今思えば、それは息子が「最高の仲間に囲まれた環境で人生を楽しんでるじゃん!」という褒め言葉だったと理解できる。
普通の軽い親子の会話だったはずなのに何故僕がそこまで激怒したのか?
「変わった奴ら」は「普通」ではないので表面側はクセが強く、中身を知る事なく世間からは少し毛嫌いされがちな存在です。
ただ、そのクセを個性だと受け入れ歩み寄り中身を知る事でそいつ本来の味わいと分厚さを知る事ができる。
そしてその存在は人生を楽しむ上で自分には欠かせないものとなる。
その時はそんな奥深い仲間たちの表面しか見ずに母親の尺度だけで判断されたと勘違いし、残念で仕方なかったのだと思う。
まぁ、一番奥深く分厚かったのは「母親」だと大人になって気づくのですが・・・


さて、最近ふと思ったのは相変わらずクセのあるものが好きだという事。
極端に短いサーフボードや一般的な酒屋では見かけないナチュラルなワインたち。
どちらも表面にはクセがあり一般流通に乗る事はなく、いわゆる個性強めで本質を知られる事なくスルーされがちなものたち。
スマホ一つで世界中の情報がタイムリーに入ってくる時代だけど、それら存在の何割を理解し自分に融合できているのだろう??
それらが持っている性格やどんな人がどんな場所で作ったんだろうとか。
理解する前に次のもっと簡単に理解できて手に入りやすい情報へスワイプしちゃってないだろうか?
個性豊かな人たちが作ったものは絶対に厚い奥行きがあるはず。
いつもそう信じて大切に作られたものに接し、個性を理解し歩み寄る事を心がけている。
僕が今苦戦しながらも理解し合おうとしてる魚のようなサーフボードもきっと楽しい所へ連れてってくれるはずだし、
毎回違う表情を見せる誰とも足並みを揃えない個性豊かなワインも、何度か付き合う内にその自由な足並みに寄り添いたくなり、
気づくとアップダウンの激しいそのステップの楽しさと飽きない心地良さに馴染んでくる。
「歩み寄る」って何気に面倒な部分もあるけど、混ざり合うことでまた自分が新しい色に変化できることにも繋がる。
なんか癖ありそうだなぁコイツ と思ったら是非足を止めて歩み寄る事の大切さをここ最近の受け身寄りの世の中に感じます。