
何かを失うという事は何かを得たのと同じ。
これは僕のお爺ちゃんが教えてくれてた言葉。
ウチは母子家庭だったので、母は朝から夜遅くまで一生懸命働いて居ました。
なので自分は首から家の鍵をぶら下げて小学校に行き、
夕方まで仲間と思いっきり遊んで夕飯時に解散して真っ暗な家に自分で鍵を開けて入る。
夕食は適当に野菜茹でてマヨネーズかけて食べたり、缶詰とか鰹節削ってご飯にかけたり。
たまに祖父母の家に行って豪華なご馳走を頂き、美味しいと思ったら調理方法も教わる。
教わったら即実践して、だいたい3日分くらい仕込んで夕方暗い家に帰宅する楽しみを作っておく。
自分はこれを単純に楽しんでいたし自由な感じと成長感がたまらなかった。
ただ世間からはよくそういった環境を少し心配されたりもしていた。
祖父が心配してなのかは分からないけどよく「人はそれぞれ10の物しか持てないんだ」と言っていたことを思い出します。
15や8しか持てない人は居なく、みんな平等に10与えられるって。
1失えば必ず新しい1がやってくると。
僕は父親が居ないおかげで同世代が経験できない多くの事を経験でき毎日ワクワク成長してきた。
いつも何を失っても必ず新しい何かがやってきて自分にインストールできるって思ってたから冷静でいられた。
ただそんな冷静な気持ちも「もし大好きなサーフィンができなくなったら」って想像すると、これだけは物凄く動揺していた。
これに変わるものは何もないと思っていたし、サーフィンは単純に1ではなくそこに付随する自然やリズムやエネルギー全てを失う事になる。
だからこれだけは失えないといつも思っている。
先日体調を崩しました。
海には入ってはいけないと言われ、もう二ヶ月海に入っていません。
サーフィンの穴をヨガや瞑想で埋めようをしていますが、エネルギーが違うような気がしてしっくりこない。
ただ今日、朝早く起きて娘と近所の田んぼまで散歩してみました。
いつもなら家族が寝ている間に軽トラにサーフボード積んで海に向かう時間です。
娘を手を繋ぎ急な坂道や畦道を通りトンネルをくぐり、また坂道をひたすら登りようやく金色に色付き始めてる田んぼが見えてきました。
畦道では車にひかれた蛇やクワガタ、飛び方の下手な黒アゲハとその脇をツノを揺らしながらスルーするモンシロチョウの幼虫。
それをみながら一つ一つ会話をして軽く盛り上がる。
トンネルの中では西野カナになりきりトリセツを歌い、坂道をテクテク登りながら僕はアブに追われ笑われ。
カミキリムシがいればこの歯で何枚の紙が切れるのかなんて2人で考えてみたり。
田んぼについたら不思議と濃い枝豆の匂いがしてなんでだろう?ってなって。
とてもシンプルで静かだけど濃厚な時間がそこにありました。
サーフィンをしていたら経験できない時間だなって思いました。
二ヶ月ぶりに新しい1を見つけた感じです。